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東京高等裁判所 昭和45年(う)1035号 判決

被告人 篠原功

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人蓬田武提出の控訴趣意書に記載された通りであるからここに之を引用し、之に対し次のように判断する。

控訴趣意中、事実誤認の主張について。

第一、控訴趣意第一及び第二の要旨

所論は、原判決は被告人車及び被告人車と対向し同車とすれ違つた大型貨物自動車(以下、対向車と略称する)の走行速度並びに両車のすれ違い地点、ひいては被告人車の前方左右に対する見通範囲について事実を誤認し、この結果、本件事故は被告人に於て指定速度を遵守していてもその発生は之を防止し得ない関係にあるのに、之を看過して、被告人に指定速度義務及び前方注視義務の各懈怠による業務上過失致死罪の成立を認定しているが、右は重大な事実誤認である旨主張する。

第二、当裁判所の判断

(一)  本件事故の概要並びに対向車の車長について。

(I) 記録によれば、被告人は昭和四十一年七月二日午後八時四十分ころ、普通貨物自動車を運転し、小山市大字粟宮千四百二十一番地先道路(国道四号線)を野木町方面から宇都宮市方面に向つて進行中、事故現場(衝突地点)の手前約四〇・九五メートルの地点に於て、道路右側を対向進行して来た大型貨物自動車を右斜前方約三二・七メートルの地点に認め、そのまま進行し、同車とのすれ違いの過程に於て、同車後方を右方より左方に向い横断し道路中心線附近に進出中の天野敬一を発見し、同人との衝突を避けるため、急制動の措置をとり、ハンドルを左に切つたが及ばず、遂に同人と衝突したことが明らかである。

(II) 記録によれば、右対向車は大型貨物自動車で、その車種は定かでないが、ニツサンデイーゼル六TC八〇型ようのもので、車長は約一七メートルであることが認められる。

(二)  被告人車等の走行速度について。

(I) まず被告人車の速度について按ずるに、記録、特に被告人の検察官に対する供述調書、当審鑑定人海老原慎一郎の鑑定の結果(以下、海老原鑑定書と略称する)及び司法警察員作成の実況見分調書(以下、実況見分調書と略称する)によれば、本件事故当時に於ける被告人車の走行時速は五五キロメートルであることが明白である。弁護人は之を争つているが、之を認め前段認定を左右するに足る証拠はない。

(II) 次に対向車の速度について按ずるに、原判決は被告人が原審に於て「大型車は被告人の車両と比較して早くも遅くもない速度であつた」旨供述したとした上、之を資料として対向車の走行速度を認定しているが、同供述を精査しても、右趣旨の供述は発見できない。却つて、被告人の当審第十一回公判に於ける供述によれば時速四〇キロメートルと認められ、之を覆すに足る証拠はない。

(III) 記録によれば、本件事故当時同現場附近に於ける自動車の時速は栃木県公安委員会より四〇キロメートルに指定されていることが認められる。

(三)  被告人車と対向車とのすれ違い地点並びにすれ違い完了時に於ける被告人車の前方左右に対する見通範囲等について。

(I) 記録によれば、本件事故は前記第二の(一)の(I)で認定のとおり被害者が被告人車と対向車とのすれ違い時に対向車の後方より道路中心線附近に進出するという状況下に於て発生しており、これによれば、右すれ違い時には、被告人の前方、特に右方に対する注視範囲に物理的の制約が存在し、その見通に障害のあることが認められる。而して、被告人車と対向車とのすれ違い地点は、一般的には、両車の前縁と前縁とが離合する地点と被告人車の前縁と対向車の後縁とが離合する地点を想定できるが、本件被告人の責任究明のためには被告人車の前方並びに右方の見通に対する障害を解消する地点として之を考えるのが相当である。従つて、右すれ違い地点は後者、即ち、被告人車の前縁と対向車の後縁とが離合する地点に於て之を把握すべきものであり、本件の場合、被告人は同地点に到達したときはじめてその前方左右を十分見通し得るに至るものといわねばならない。而して、被告人車と対向車とのすれ違い地点が両車の走行速度のいかんによつて変ることは経験則上明白であるところ(海老原鑑定書二五頁参照)、前記第二の(二)の(I)及び(II)の認定によれば、本件に於ける被告人車の走行時速は五五キロメートル、対向車のそれは四〇キロメートルであり、この場合両車のすれ違い完了地点は被告人が最初被害者天野敬一を発見したとき同人がいた地点(実況見分調書添付見取図中(イ)、以下(イ)と略称する)の手前一二・二メートルであることが海老原鑑定書に徴し明白である(同書二五頁、二六頁及び添付図6、7参照)。もつとも、実況見分調書及び被告人の原審第十一回公判に於ける供述によれば、被告人は対向車とのすれ違いの過程に於て対向車の中央辺で一七・五メートル前方附近に赤黒い人影=被害者天野敬一=を見たことが認められ、原判決はこの点を根拠として一七・五メートル以下でのすれ違いは事実に反するものとして之を否定しているが、海老原鑑定書によれば、すれ違い完了前に於ても、場所のいかんによつては、対向車後方にいる被害者が対向車の尾灯によつて照明されて発見できる場合もあり得ることが認められ(同鑑定書二六頁、三〇頁参照)、このことと実況見分調書により看取できる右(イ)の地点は道路中央線より一・一五メートル被告人車の車線内にあることを併せ勘案すると、被告人が被害者を一七・五メートル前方に認めたことは当裁判所の前段すれ違い地点に関する認定に支障を来すものではない。

なお、検察官は原審論告に於て被告人車及び対向車の速度をそれぞれ時速五五キロメートルとして両車のすれ違い地点を述べ、原判決はこれまた検察官と同じ見地に立つて両車のすれ違い地点を認定しているが、海老原鑑定書(同書添付図6、7参照)によれば、両車の速度が右の場合そのすれ違い地点は(イ)の手前一六・二メートルであることが明らかであり、これと異なる検察官の意見並びに原判決の認定はいずれも相当とはいえない。而して、両車の速度がいずれも指定速度である時速四〇キロメートルである場合両車のすれ違い地点が(イ)の手前一六・二メートルであることも、これまた海老原鑑定書(前掲図6、7参照)に徴し明白である。

(II) 記録、特に実況見分調書及び被告人の原審第十一回公判に於ける供述によれば、本件事故当日は全くの暗夜で、しかも事故現場附近には外灯の設備はなく、左右の視界も全くきかない状態であつたことが認められ、本件の場合被告人の自動車運転者としての前方左右の注視は自動車備付の前照灯の照明によるほか方法のないことが明らかである。而して、海老原鑑定書並びに道路運送車両の保安基準によれば、本件当時被告人車備付の前照灯の照射範囲は、走行ビームでは前方へ約一二〇メートルであり、その一〇〇メートル地点では左右へ約一〇メートルであること、すれ違いビームでは前方へ約六〇メートルであり、その三〇メートル地点では左へ約八メートル、右へ約四メートルであることが認められ、本件の場合右のうち被告人の前方注視の範囲に主要な関連性をもつものはその事故態様に鑑みすれ違いビームであることは多言の要がなく、特に右方の見通が悪条件下にあることは否定し難い。而して、海老原鑑定書によれば、被告人が前記第二の(三)の(I)で認定の経過により(イ)点にいる被害者を一七・五メートル手前ではじめて発見していることは被告人車の照射範囲等諸般の状況に照らし運転者としてやむを得ないものであつて、被告人に対してもつと早期に被害者の発見を求めることは難きを強い相当でないことが看取できる(特に同鑑定書二〇頁、三八頁等参照)。

(四)  以上認定のとおりとすれば、本件の場合、被告人に指定速度義務違反の責あることは第二の(二)の(I)、(III)に徴し明らかであるが、前方注視義務についてはその懈怠を認め難いことは第二の(三)の(I)、(II)に徴しこれまた明白である。

而して、自動車の急制動による停止距離が、時速五五キロメートルの場合約二九・六六メートル、時速四〇キロメートルの場合一七・九九メートルであることは経験則上顕著な事実であるところ、被告人が被害者をはじめて発見したとき、同人との距離は前記第二の(三)の(I)、(II)で認定のとおり一七・五メートルであり、しかもこれより早い時期にこれより手前の地点に於て被害者を発見し得たと認め得る証拠はないから(第二の(三)の(I)参照)、本件に於ては、右停止距離に照らし、被告人が対向車とすれ違い時に指定速度四〇キロメートル=本件の場合被告人が指定速度以下で走行すべきものと認むべき事情は存しない=で走行していても、本件衝突地点手前で停止し、以て本件事故の発生を未然に防止し得たものとは到底認め難い。

(五)  そうだとすれば、被告人に第二の(二)の(I)、(III)及び(四)認定のとおり指定速度義務違反の過失があつても、同過失と本件事故との間に因果の関係は認め難く、結局原判決は証拠の価値判断を誤り、被告人の過失並びに結果に対する因果関係の点につき事実を誤認しているものといわざるを得ず、この場合被告人の責任は否定されるものであるから、原判決は爾余の控訴趣意に対して判断するまでもなく破棄を免れない。

(六)  よつて、刑事訴訟法第三百九十七条第一項により、原判決を破棄し、同法第四百条但書により、当裁判所に於て、更に次の通り自判する。

本件公訴事実は

被告人は自動車運転の業務に従事しているものであつて、昭和四十一年七月二日午後八時四十分ころ普通貨物自動車を運転し、栃木県小山市大字粟宮千四百二十一番地先附近道路を時速約五五キロメートルで宇都宮方面に向け進行したが、自動車運転者としては、運転中絶えず前方左右を注視し、障害物の早期発見に努め、事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるに拘らず、対向してきた大型貨物自動車に注意を奪われ、暫時右前方に対する注視を怠つて進行した過失により、右対向車の後方から駈け出してきた天野敬一(当時三十三年)の発見が遅れ、道路中心線附近まで進出した天野を約一七メートル右前方に認め、急制動を施しハンドルを左に切つたが間に合わず、自車前部右側附近を同人に衝突して約一五メートルはねとばし、よつて同人に対し脳挫創、頭蓋骨骨折、両側硬膜内及び外血腫等の瀕死の重傷を負わせた上、同月四日午前零時三分頃同市八幡町二丁目十番六号小山厚生病院に於て死亡するに至らせたものである。

というのであるが、犯罪の証明がないので、刑事訴訟法第三百三十六条後段に則り、被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

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